昭和49年07月25日 朝の御理解



 御神訓 一、「信心して、まめで家業を勤めよ。君の為なり、国の為なり。」

 私今日の、今朝の御祈念に御心眼を頂いたんですけれども、私の両親がおかげを頂いております部屋に、「老太夫」という軸が掛かっております。老太は太夫(だい)うふと、支那の絵です、年寄り夫婦が二人の孫をあやしておる絵が描いて御座います。そしてその前にもう見事な柳の木ばかりを使った、生花が入れてある所を御神眼に頂きました。どう言う事かと申しますと『安養楽土』と言う事を頂きます。安は安心の安。安らかに養う楽土。楽は合楽の楽。土は土(どろ)。
 月に四回ではありますけれども、両親とー諸に月次祭の日にだけお食事をさせてもらいます。二人共少し御酒をたしなみますから、ー諸に御酒を頂いて、本当に夏でも涼しいさわやかな部屋です。冬は又、本当に暖かい暖房がなくても暖かい部屋です。まあ本当に、私があの部屋こそ極楽部屋だと何時も言っております。もう皆さんがそれこそ、おばあちゃまに、おじいちゃまにと言って、甘いもの辛いもの、それこそ様々な珍しい物を、もう移り変わり誰かがー杯持って行って下さいます。
 私は親を忠心にとか、親を大切にとかいうけれども、私は自分の手で大切にした事は一辺もありません。腰をもんであげたりとか、小遣いをあげたりとか一辺もありません。けれども小遣いはこちらが頂くくらいにおかげを頂いております。もう今の冷暖房のあれが付きます時にはご信者で暖冷房の御商売をなさっておられる方が沢山聞かれた中にですね、あのー台だけが余分に来ていたんです。
 だから是はもう神様にお供えさせて頂く、それでこの暖冷房機がどこにー番ピタッと来るだろうか、私とこじゃもうお供え頂いておりましたから、私どもは先だったんです。それでばば様たちの部屋を持って行ったら、あそこにピタッとあうのです。と言う様にですね、私がこうしてあげたとか、こうとかないけれども神様が何時も先廻りして、いうならば親孝行をさせて下さると言う感じですね。
 私が今日頂きました『安養楽土』という言葉にピタッリという感じです。「老太夫」と言う絵の軸の前にもうそれこそ見事な柳の木がこう、柳だけで、その生花のそれも、もう何流か知れないけれども、そりゃ見事なその柳のお生花でした。見た事がない程素晴らしい。私はね私が親孝行をすると言うのではなくてさせて頂く。神様がさせて下さると言う所に私の親孝行の値打ちがあると思うんです。
 良い着物を作ってあげた事もからなければ、なら肩ひとつ腰ひとつ揉んであげた事もない、所がもう九十になりますけれど、肩が痛いから腰を揉んでくれとか肩を揉んでくれと言うた事がない。私の両親は。いうなら神様のそう言うね、お守りの中に九十にもなってね、何不自由ない五体、健康の上にもー時が万時の上にもおかげを受けておる。信心して、まめで家業を勤めよとか、私は此処の所が大事だと思うんですね。信心してまめで家業を勤めればです。
 言わばもう是は国の為なり、君の為なりとひいてはね、世界総人類の幸福にも繋がる程しの事だと言う事を、昨日の御理解の中に頂きましたから、その事をちょっと読んでみましょうね。「信心により健康のおかげを受け、家業に実意を込めよとの御神意ですから、その内容がね、奉仕とは神に仕える。仕事、それは事に仕える。働く。他が楽になるの内容になっておらねばならんのです。
 その事がそのまま君の為なら国の為でもあり、自分自身の為にもなるんです、国の繁盛は世界総人類の繁盛にも繋がらねば、御神意に応えた事にならんのです」とあります。御神意に応えると言う事は、信心してまめで家業を勤める事なんです。そんならねじゃあ家業に一生けんめい働く人がありなすね。けれども信心して稽古を受け信心して家業に勤めなければ、最後ん所の、じゃあ神様の御神意に応えると言う事にはならんのです。ならその、信心してと言う事は、どう言う事かね。
 只信者です お参りしています。日参しよります。それじゃあないんです。信心してなんですね。その信心がです最後の神様のそれに応えられると云う程しの答えが出て来なかったら信心してと言う事にはならんのです。ただ拝みよります。おかげ頂よりますじゃいかんのです。信心してまづ健康のおかげを頂いて家業に勤め、ただ此処ん所をですね、只一生けんめい自分の言うなら是を天職と思うて、その事に一生けんめい働くと言う事だけじゃないんです。それが信心によると言う事なんです。
 私は今日、この昨日のこの御教え、もう一下り書き添えて頂たいと思う事ですけど、是はもう最高で絶対の道なのですね。それはね、どう言う事かと言うと、私共がその、今日御神願頂いた様な柳の生花ではないけれども、素直と言う事それは神様の前に素直と言う事、言うならば、神様を中心に申し上げた生き方と言う事、言うならば、神様まかせの生活と言う事、この生活からならば、絶対君の為なり、国の為なり自分自身の為なりあると同時にです。
 世界総人類のね幸せ、幸福にも繋がる程しの物である。所謂神のお心に神意に応える生き方、そうゆう答えが必ず出て参ります。是はもう最高にして絶対の御教えです。その事を私はま一つ書き添えて頂きたいと思います。今朝から頂いてそれを感じました。そして私共が合養薬土であります。所謂本当の意味において合楽を現すと言う事ですね。もう前回の分ですから何年か前の話の丁度、ここの御神訓を読まして貰ますね。
 そこの所にゃどうあるかと言うと、丁度私がその御理解を解かねばならぬと、ー時の御祈念のちょっと前に手紙が参りました。上滝さんの三番目の息子ですか、四番目の息子ですか、が警察官になって大阪に勤務しております。そしてある試験を受けたと言うて来ておりましたから、私はそれは見合わせたが良かろう受けないで今のままが良かろうと言うてやっておりました事に対するお礼の手紙で御座いました。
 あの事は親先生の教えて下さった通りに見合せましたと、まあ色々と書いておる次にです、もうおばあちゃんの事、ばばの事くれぐれも、そから母の事をくれぐれもよろしくと書いてありました。そしてこれは初のボ-ナスで御座いますというて、それをそのままお供えにして下さいというお初穂をお初穂としての同封して送って参りました。その事を、私はこの前書いております。そういう生き方ですね。
 此処ん所のいうなら、君の為なり国の為なりであり、ひいては自分自身の為であり、それは総人類の、幸福にも繋がる程しの生き方だと、それはほんのひな形ですけど、そういう生き方なんです。第一神様まかせで自分の意思を全然出していないでしょう。次にはね、親先祖いうなら、ばば様はもう先祖とも思われる様な事ですよね。ばば様の事をどうぞよろしゅう、又母親のことをどうぞよろしゅうということね、
 そういう生き方ね。その上にです、神恩報謝の心というか、初のボ-ナスです。どうぞ神様へお供えして下さい、と言う様な生き方なんです。神様を中心にした生き方、そして先祖を大事にする。親を大事にする。そして愈々神様へ神恩報謝の誠を捧げると言うのですから、これがピッタリなんですこの道、そういう生きをです、なら試験を受けるというそう言う時だけだなく、何時もがそれで行けば、この御教えにピッタリと言う意味で、何年前かの此処の所を頂いた時には、頂いたんだとこう思うのです。
 言うならたったそれだけの事なんです、だからそれが愈々純粋にです、生活の全面に渡っての、神様を中心にする生き方、親を中心にする生き方、神恩報謝の真を捧げ尽くしての行き方、そう言う生き方からです、最高にして絶対の道が開けて来るというのです。そして私自身のの事を思います。所謂その上滝君のそれじゃないですけれども、私のそれよりかも少しあかぬけしておった。
 しかもそれがその一言と二言で無くてずっとその生き方で来たと言う事なんです。そこに私は安養楽土が生まれたと思うんです。私こういう字が実際安養楽土なんかあるか知りませんけれどもね。神様から頂いたのはこうでした。安らかに養い所謂楽土。そこでです神様の前に、私共が純粋な素直さを持って言うなら神様を中心に、神様まかせの生き方をする事の為には愈々ね。心の言うなら病気と云うかね。
 それを素直に受けられないというのは、矢張り心が一つの病気にかかっておる様な物です。自分の我流でやって行こう等と言う様な物でない。先ず純真な心の素直さを願わしてもろうてです。ただね自分の考えではわからない、だから其処の所だけど御神意を伺ごうて右にする、左にすると言う人は沢山ありますけれども、もう全面に渡って自分の心の総て、全身全霊をまかせきっての生き方と言う物、と言う物です。
 すんなり身に付ける以外に無いです信心は。それが心の病気が有りますとそれをすんなりと受けられんのです、親先生はあげん言いなさるけれどもと言う事になるのですね。私共は先ずはです、そういう生き方を身に付けさせて頂いて、世の中にはもっともっと言うなら難病に苦しんでおる、心の難病にねそして貧乏の苦しみ、争いの中にあっての苦しみ、肉体の所謂不健康と言った様な難儀に満ちた、生活をしている人がどのくらい沢山あるかわかんらんのです。私その事を今鉛筆でこげな様な文章に書いてみた。
 心の難病に「しんぎん」しつつある哀れな氏子が、巷に溢れている。天下万民の苦悩を救い、この天地をしてこの土をして、この土(どろ)ですね。安養楽土足らしめるにある。今合楽で言われている合楽を現すと言う事は、まず私共が合楽を現さなければならない。私共が先ずは安養楽土に住まなければならない。そしてね巷に溢れていると頃の、心の難病に「しんぎん」しつつあるあわれな氏子、そういう人達に救いの手を差し伸べていかねばならない。そこに私はですね今日皆さんに聞いて頂いた。
 神様の前に純粋素直な生き方をもって行くと言う事が、最高しかも絶対の道ね中心を神様をおいての生活からです、本当にこの世は極楽であろうかという、人間の幸せの条件のすべてが足ろうてくるおかげが頂けて来る様になる。そのおかげを持ってです、今いう巷に溢れている難儀な氏子の上にです、手を差し伸べて行かなければならぬという、いうならそういう責任を感じる位な信心を頂かせてもろうておかげを頂いて行かなければならないと言う事です。今日は昨日頂きました。
 いうなら信心してまめで家業を勤めよと言う所、信心してまめで家業を勤めると言う事を聞いて頂いた。信心してまめで家業を勤めると言う事は、今日私の中で聞いて頂いた様な内容でなければ、信心してと言う事にはならんのですね。只拝みよりますそして一生懸命、自分方ん仕事ばしよりますと言う事ではない、それは君の為なり国の為なりね、それはいうなれば世界の人類の幸福につながって行く程しのもの、それでここん所は信心してまめで家業を勤めると言う事の内容を今日は聞いて頂いたんですね。
   どうぞ。